アピアランスケアという、もうひとつの治療
「鏡を見るのが、少し怖くなった日がありました。」
これは、多くの患者さんが治療の過程で漏らされる切実な思いです。抗がん剤治療が始まると、脱毛や肌の変化、思うように動かない体など、昨日の自分とは違う姿に戸惑い、言葉にできない不安に襲われることがあります。
国立がん研究センター中央病院のアピアランス支援センターには、多くの患者さんから「外見の変化によって、社会や他者とのつながりが断たれるような不安を感じる」という声が寄せられています。
私たちが恐れていたのは、外見が変わることそのもの以上に、鏡の中に映る「いつもの自分」がどこかへ置き去りにされてしまうような、静かな心細さだったのかもしれません。
「がんになったからといって、私であることをやめる必要はない」
出典:国立がん研究センター『アピアランスケアとは』
もし今、あなたが「治療中なのだから、見た目を気にするなんて贅沢だ」「周りに申し訳ない」と、ご自身の小さな願いに蓋をしてしまっているのなら、どうか自分にこう伝えてあげてください。
「病気と向き合うあなたは、もう十分に頑張っています。少しでも心地よい自分、納得できる自分でいたいと願うことは、あなたが『あなた』として生きていこうとする、とても力強く、尊い意志なんですよ」
外見を整えることは、単なるおしゃれではありません。 あなたが、あなたらしく日常を過ごし、明日への一歩を踏み出すための「大切な治療の一部」です。
少しずつ、あなたのペースで。「いつもの私」を、一緒に見つけていきましょう。
アピアランスケアとは? 〜自分らしさを守るための、大切な一歩〜
「アピアランス(Appearance)」とは、英語で「外見・見た目」を意味する言葉です。
がん治療におけるアピアランスケアとは、脱毛や肌の変化といった「外見の変化」によって生じる「自分らしさが損なわれるような不安」や「社会とのつながりへの戸惑い」を和らげるためのケアを指します。
それは単におしゃれをして綺麗になることだけが目的ではありません。
「見た目を整えることで、心にゆとりを持ち、自分らしく日常を過ごせるようにすること」
この「心の回復」こそが、アピアランスケアの真実の目的であり、前向きに治療を続けていくための「大切な治療の一部」なのです。
脱毛への備えと「ウィッグ・帽子」の活用
抗がん剤治療において、多くの方が最も大きな不安を感じるのが「脱毛」です。自分の分身ともいえる髪が失われることは、単なる外見の変化以上に、心に深い痛みをもたらします。
しかし、「何が起きるかを知り、備えること」で、その不安を「自分を支える安心」へと変えていくことができます。経験者たちは、脱毛という変化を「防ぐ」ことはできなくても、その期間を「どう過ごすか」を自分で決めることで、心の平穏を取り戻してきました。
【経験者の視点:自分を守るための準備】
「脱毛が始まる前、まだ元気なうちに、今の自分の髪型をいろいろな角度から写真に撮っておくことをお勧めします。後でウィッグを自分らしくカットしてもらう時の、何よりの資料になります。
また、外出用のウィッグも大切ですが、家の中で過ごす時間が一番長いからこそ、締め付けないコットン100%のケア帽子を数枚用意しておいたのが、精神的にも一番楽でした。帽子を被ることで、『守られている』という安心感を得られた気がします。」
参照・引用元:国立がん研究センター 中央病院 アピアランス支援センター「脱毛について」
〜あなたらしさを守るための3ステップ〜
脱毛が始まる前に、髪型(前後・左右)や眉毛の形を写真に残しましょう。これは、後にウィッグやアイブロウメイクで「自分らしさ」を再現するための大切な地図になります。また、短くカットしておく場合は、抜ける時の精神的なショックを和らげ、掃除の負担を減らす効果もあります。
脱毛が始まると頭皮が敏感になることがあります。ウィッグは見た目だけでなく、裏地の肌触りや通気性を確認しましょう。体調の良い時期に試着やカタログ取り寄せを行い、「これを被れば外に出られる」というお守りを見つけておきます。
24時間ウィッグで過ごすのは、頭皮にも心にも負担がかかります。「仕事や外出はウィッグ」「家の中やリラックスタイムは柔らかいケア帽子」と使い分けるのが一般的です。最近では、つば付きの帽子や、前髪だけ取り外しできるインナーウィッグも、自然で過ごしやすいと選ばれています。
肌・爪のトラブルを防ぐ「守りのスキンケア」
抗がん剤治療の影響は、髪だけでなく、皮膚の細胞や爪にも及びます。肌が極端に乾燥したり、爪がもろくなったり、あるいは少しの刺激で黒ずみ(色素沈着)が出たりすることも少なくありませんよね。
こうした変化は、外見上の悩みだけでなく、痛みやかゆみといった身体的な苦痛にもつながります。だからこそ、トラブルが起きる前から「バリア機能を補うケア」を始めることが、自分自身を優しく守ることにつながります。

「抗がん剤の影響で、指先がひび割れたり、爪がボロボロと欠けたりして、家事をするのも辛い時期がありました。
聖路加国際病院の相談室でアドバイスを受け、処方された保湿剤に加えて、低刺激の日焼け止めを毎日欠かさないようにしました。少しの刺激や日差しで色素沈着しやすくなっているので、UV対策は『美白のため』ではなく『肌を守るため』に必須だと実感しています。」
参照・引用元:聖路加国際病院:アピアランスケアに関する実体験
1. 「保湿」は洗顔・入浴後3分以内に
- 治療中の肌は水分を蓄える力が弱まっています。顔だけでなく全身、特に乾燥しやすい手足の指先まで、低刺激のクリームやローションで保湿しましょう。爪の付け根にはネイルオイルを塗ると、割れや欠けの予防に効果的です。
2. 「紫外線」を徹底的にブロックする
- 抗がん剤の種類によっては、日光に当たることで発疹や色素沈着が出やすくなる(光線過敏)ことがあります。外出時は季節を問わず日焼け止めを塗り、日傘や帽子を活用しましょう。室内でも窓越しに紫外線は届くため、朝の保湿とセットでUVケアを習慣にするのがおすすめです。
3. 「摩擦」を避けて、泡で洗う
- 肌のバリアを壊さないよう、体を洗う時はナイロンタオルなどでこすらず、たっぷりの泡で包み込むように洗います。お湯の温度も「少しぬるめ」が理想的です。タオルで拭く時も、押さえるように水分を吸い取るのがコツです。
味覚の変化と「食べられるもの」の見つけ方
治療が進むにつれ、「砂を噛んでいるみたい」「大好きだった出汁の味が苦く感じる」といった味覚の変化に戸惑うことがあります。食事が進まないことは、体力の低下だけでなく、「食べる楽しみ」を奪われるという心の負担にもなりがちです。
大切なのは、「栄養バランスを考えて食べなきゃ」という義務感から一度自分を解き放つことです。今は「食べられるものを、食べられる時に、食べられるだけ」。そのくらいの気持ちで、今のあなたの口が「心地よい」と感じる味を探してみましょう。



口の中がずっと苦くて、大好きな和食の出汁の味が分からなくなった時は、本当にショックでした。
そんな時は、レモンやポン酢の『酸味』を効かせたり、キンキンに冷やしたアイスやゼリーが救いになりました。無理に三食食べようとせず、ひと口でも『美味しい』と思えるものを見つけることが、私なりの前向きな治療でした。
参照・引用元:国立がん研究センター がん情報サービス「食事の工夫・体験談」
〜味覚変化を乗り切るためのヒント〜
1. 「感じる味」に合わせて味付けを変える
- 味が薄く感じる時は、スパイス(カレー粉、シソ、ハーブ)や出汁を濃いめに。
- 苦味や金属味を感じる時は、レモンやゆずの酸味、ケチャップやマヨネーズなどの「はっきりした味」が助けになります。
2. 「温度」を下げてみる
- 温かい料理は匂いが立ちやすく、味の違和感を強く感じることがあります。うどんやスープをあえて「冷やし」にしたり、冷たいフルーツやシャーベットを選ぶと、スッと口に入る場合があります。
3. 口の中を「リセット」する習慣
- 口の中が乾燥したり汚れたりしていると、不快な味が強まります。食事の前後や、なんとなく口が気持ち悪い時に、刺激の少ないマウスウォッシュや生理食塩水でこまめにうがいをしましょう。
セルフケアは、自分を慈しむ「心の栄養」
アピアランスケアは、誰かのために「元気なふり」をするためのものではありません。鏡の中の自分と向き合い、自分自身の手で「今の自分」を心地よく整えてあげる、とても純粋な自分へのギフトです。
治療中は、どうしても自分のことが後回しになりがちです。そんな時、ほんの少し眉を整えたり、好きな色のリップをのせたりする時間は、病気にコントロールされるのではなく、「自分のあり方は、自分で決める」という自信を取り戻させてくれます。



最初は『外に出るのが億劫だから』という理由で始めたケアでしたが、次第に自分のために整える時間そのものが楽しくなっていきました。
丁寧にスキンケアをして、お気に入りの帽子を選ぶ。その小さな積み重ねが、『私はまだ、私をあきらめていない』という強い肯定感に変わったんです。鏡を見て『よし、今日もいい感じ』と思えるだけで、心のなかにスッと新しいエネルギーが溜まっていくのを感じました。
参照元:国立がん研究センター中央病院 アピアランス支援センター「患者さんの声」 より趣旨を引用・再構成
「自分と仲直りする」時間を持つ
変化した姿を否定するのではなく、今の自分を「お疲れ様」といたわる気持ちで触れてみてください。その優しさが、心の回復を助けてくれます。
「好き」を優先する
ウィッグやメイクは、正解を探すのではなく、今のあなたが「落ち着く」「好きだ」と思えるものを選んでください。そのワクワク感が、何よりの免疫力になります。
一歩踏み出す「スイッチ」にする
ケアを終えたとき、心に小さなスイッチが入ります。「今日はあのアイスを買いに行こう」「窓を開けて風を感じよう」と思える。そんな日々の小さな活力を生み出すのが、アピアランスケアの真実の力です。
あなたのペースで、「心地よい私」をひとつずつ
副作用や外見の変化と向き合う日々は、決して平坦ではありません。時には何もしたくない日があってもいいし、完璧を目指す必要もありません。
大切なのは、ケアを通じて「自分をいたわる時間」を持つことです。ほんの少しの手間で心がふっと軽くなったり、鏡の中の自分に「いい感じ」と声をかけられたり。そんな小さな喜びの積み重ねが、治療を支える大きな力になります。
この記事のポイント:自分を守り、元気づける3つの柱
ウィッグや帽子を「心を守るお守り」にする
「隠すための道具」ではなく、あなたが心地よく、自分らしくいられるためのファッションとして楽しみましょう。
「守りのケア」で、肌と爪に優しさを届ける
低刺激と保湿を基本にしたケアは、体だけでなく「心への保湿」にもなります。自分の体に触れる時間を、慈しみの時間に変えていきましょう。
「食べられるもの」を、あなたの身体の声で選ぶ
「食べなきゃ」という義務感よりも、「これなら食べたい」という直感を大切に。食事の時間を、少しでもリラックスできるひとときに。
まずは自分を心地よくさせてくれるケアを、一つ見つけることから始めてみませんか。
その一歩は、好きな香りのクリームを塗ることかもしれません。お気に入りの色の帽子を被ってみることかもしれません。 あなたが、あなたらしく。今日という日を少しでも穏やかな気持ちで過ごせますように。



